■南方マンダラが、ポストモダンの主題のひとつである市民社会へどのような変容を可能にするのか?と言う中沢の問いは、先に述べたように熊楠が、当時の時局、時勢へどのような考察分析でコミットしていたのかを知りたい。・・と言う私の庶民的願望と同じではないのか?、
東洋哲理、仏教思想の根底にあるホーリスティックな人間社会と自然の関係、多様性と創造的なダイナミズムを統合する熊楠の「縁の論理」が、華厳思想の更なる精緻化を行い、それをどのように可能にしているのか?この著作で理解することなのだろうと私は勝手に独断している。
私のような、目隠しをされた愚かな馬が、川岸までの案内もなくその水を飲めるのか否か?自信はないが、馬からメクラ蛇の蛮勇?と猿知恵?に変身で・・行ける所までこの中沢山脈を登ってみようと思う。・・Www
飛躍すれば、宇宙的な生気論でもあり、未開社会の世界観であるトーテミズムは多様な自然や諸現象との間にデリケートな配慮や互恵、還元的な知恵を持っていた。・・・それが、ハイテクで同質化、時空矮小化されたポストモダンの市場世界へ有効な
規範や倫理として再生可能なのか?を問うているのだとも思う。
ポストモダンの主題とは、今、消えつつある森のもつ多様性や、すべての生命を宿しカオスを内包しながら常に静止せずコスモスへ創造的に流れる力、また生命の動きが調和による
カタストロフィーを大局的にバランスさせる世界、あの森の樹木に囲まれているときの爽快感、心の落ち着き、自由な、神秘的なあの感覚・・・・etcを、グローバリズムで環境を均一同一化し破壊するこの世界に、何とかして再生する事なのだと私は思う。それが、救済を求める一般庶民の素直な願望でもあると確信するからだ。
「森のバロック」とは著者がバロキズムの天才ライプニッツの「一切知」と対比させ、この森を宇宙樹として、存在世界のマトリクスとして、熊楠が高次元のマンダラ理論にとらえたことを表現するために、著書名としたのだろう。
■しからば、南方マンダラとは何か?華厳思想をいかに深化させたのだろうか?著作によれば、ロンドンから、故郷の那智の森へ34歳で帰り、南方マンダラのかたちが与えられたのは明治36年熊楠37歳のときだった。構想から10年近い歳月を要したという。
もちろん、このころ日本人は熊楠の存在を知らなかった。
1893年明治26年、熊楠27歳のとき、ロンドンで彼は、慶応義塾で法学を学び、モダンボーイでもあり法衣を纏った真言僧の土宜法竜に会う、彼はフランスやロンドンで大乗仏教と密教のレーゾンデートル
を研究目的で訪欧、この東洋思想が過去の遺物ではなく、新しい世界を開いていく可能性を探っていた。法竜と熊楠のロンドンでの出会いは、相互にとって切磋琢磨の絶好の機会となり、熊楠の大英博物館に集約される西欧諸学問の吸収勉学と同時に、その科学的還元思考万能の欠陥や
限界への気づきから、真言密教、マンダラの思想によって来るべき未来の学問、方法を構想していた熊楠にとって、自分のアイデアと構想のレベルを高める絶好の手ごわい議論相手(後年、高野山管長となる)土宜法竜であった。
■南方マンダラは「心」と「物」が交わるところに「事」が生まれるという概念が核となる。例えば、建築という「事」が建築家の「心」と建材と石や木、鉄などの「物:物質」との交わりで実現すべく「事」として、無形のもの「心」と「物」の境界に生まれると言う。
設計図もまた「事」として 「建築アイデア:心」と物質である「設計図の描き方、紙」という物質と出会いにより、「事」となる・・ 記号や表象が抽象、汎用化のために関連するものは全て、「事」として、連鎖として出来上がっている。要するに、純粋に「心だけ」とか、「物だけ」などというのは、人間世界では意味をもたず、あらゆるものが「心」と「物」の交わるところに生まれる「事」として現象している。しかも、「心界」における運動は「物界」の運動をつかさどるものとは違う流れ、原理にしたがっている。「物界」で因果応報ということが確実におこるのに、純粋な「心界」で因果応報がおこるとは限らない。悪い考え、「心」があっても「物界」と出会い、その流れに巻き込まれなければ、因果応報に直結はしない。
「事」 は異質なものとの出会いに生成され、再び、「心」と「物」にフィードバックされる。この連鎖から人間にとって意味のある世界が作り出され、その中から原則、がみいだせる筈だと熊楠は仏教の哲理から直観した、と著者は南方マンダラの来歴で解説、説明している。
更に、もっとも重要な「事」は対象として分離することができない。「心界」が異質な「物界」と出会い「事」の痕跡が生まれるが・・もともと「心界」につながる「事」は知性には「物」のように対象化し、分離して扱えない。
分離不能、対象化不能なダイナミックな運動である「事」を扱えなければ、どんな学問でも自分は世界をあつかっているなどと大口をたたけなくなる。中沢新一らしいこの熊楠マンダラへのコメントは・以下であろう。
■この「心界:物界」「事」 の視点が、量子論の誕生によって初めて直面したハイゼンベルグの不確定性原理=「観測問題」:量子の運動が観測されているときには必ず人間の意識の働きが関与している(量子の位置と運動量エネルギーは同時に測定できない?不確定性)・・どんな物質現象もそれが人間に意味を持つときにはすでに「物」ではなく「心界」と「物界」の境界上の「事」として現象し、決定不能となる。そして部分、細部はその全体を包摂し相互に矛盾しない・・。量子物理学は今日もそのパラドックスに満ちた「事」世界:不確定性原理=「観測問題」を記述するために・・巨大なサイクロトロンを使い模索・研究を続けている。熊楠は量子理論の生まれる30年も前から「事」として作り出される世界の実相を明らかにする方法を模索していたのだ・・この量子理論へのコメント跳躍はまさに中沢節らしい斬新?な切り口である(ハイゼンベルグ不確定性原理・位置、運動量・・は小生の蛇足追加)。事のすべてが脳内現象?の結果だとしても、その脳自信がコンピュータの自己解析のように、自己分析を既にはじめていた・・・。つい最近の、ニューサイエンスや量子論の誕生の100年近くも前にそれが熊楠によって思考されていたのだと言う事に改めて驚く。
■独断私見で付け加えれば、「事」的世界とは人間の主観、デカルト的世界観、コギトエルゴ・・の宿命、人間の脳の宿命でもあり・・事的世界観:世界の共同主観的な存在を共有することで人間世界が構築されている。主観たる「心界:脳科学?意識?」と「物界」の極微の量子物理学と宇宙マクロをつなぐ 大統一理論にも?要素還元、細分化科学と複雑系にも?構造主義、記号言語学・文化人類学・ポスト構造主義への社会科学へも通底する根幹課題の先見性で熊楠は世界を観て いたのだと思う・・・・・・超人・巨人として。
■森のバロックで中沢氏は、南方マンダラが1)不思議の体系、2)マンダラの構造、3)縁の論理、の3つから出来ており、各側面からこれを説明している。まず、「@不思議の体系」ではそれまで「世界」「現象」などと呼んでいたものを「不思議」と言う言葉で言い直すことで、存在世界には底がない、きりがない、という熊楠の直観を強調している。「心不思議」「物不思議」「事不思議」さらに「理不思議」として大日如来の大不思議が付け加えられることで、諸不思議のおりなす重層的な全体構造を表すものとして理解しなおされている。
「心」も「物」も「事」も其々複雑な構造をもっているが、カオスへ投げ込んでしまうのではなく何らかの秩序を全体として持っている。人間の知性も同じように「心・物・事」の重層構造体として作られているために、双方の構造体が共鳴状態を求めるように、知性は森羅万象の中に秩序を捜し求めようとする。ところが・・この不思議の世界、森羅万象は底なしのタマネギ状の重層構造で、知性がある不思議に何らかの秩序を見出しても、即、その更に底に深いレベルの実在・・不思議が動いていることを見出してしまう。ものごとの理解が深まれば深まるほど、新たな未知、不思議が顕れてくる・・那智の森の中で熊楠はそれを直観し「不思議」と呼んだのだ、と中沢氏は解説する。
更に、熊楠は近代科学が、「物不思議」の中に秩序、順序を見出し、みごとな成功を収めつつあるが・・それは「原理」ではなく現象の「構造」にすぎない、科学的な要素還元の手法、思考にはそれ自体が順序、秩序の抽象構造を持っており、「理不思議」が宿っていて・・決して合理的に捕らえつくすことは出来ないのだと論理哲学的な限界まで見抜いている。このようにして、宇宙は諸不思議の複雑重層化した集合体として・・多次元的な断面図?だと言われる・・南方マンダラの図へと繋がっていく。
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■南方マンダラの図は、宇宙では、一切の不思議、事理が全体運動を行い変化をおこしており、無尽のこの事理、不思議を人間の知性は捉える能力を与えられている。人間の知性自体が、宇宙から与えられたものだからだ。
人間の知性は互いに異質な不思議同士が出会ったり、結びあったり、交差しているところ「萃点(すいてん)」だと、関心を引き付けられ、そこに集中している事理、不思議の数が多いほどより早く、より簡単にすじみち、秩序を認識できるようになっている。と南方マンダラの
解説を中沢はする。ごちゃごちゃいっぱいに線が書き込んであるところは可知空間で、その外側に事理宇宙を遠くかすめて飛行するような1本の彗星のような線(ル)は可知世界の外でこれを知る手がかりがないように見えるが・・
人間の知性にはそういう場合にも、(ル:理不思議)の本質を推測することが出来る。それこそが「理不思議=大日如来の大不思議・の力」なのだ。
「理不思議」には認識したり、記述したりするだけではなく、未知のものの存在を予言したり予測したりすtる力もある。人間の知性には表面に顕在化されないものまでも推論の力でとらえ、隠されていたものの実在が浮上してくることにも力を発揮する。湯川秀樹のπ中間子の発見がこの推論の力であり・・湯川自身が「存在の理法」とこの力を呼んでいる、と中沢氏は語る。
■Aマンダラの構造:熊楠によれば、「大日如来の大不思議」:胎蔵界大日・・・大日如来の心から、:金剛大日=物が生まれ、この二つ交わりや反応、動作から「事」が作り出される。大日如来の心は人間の「心界」と「物界」まき込んだ全体運動をおこなう、高次元の叡知的な実在をしめしている。人間の「心界」は有情のアーラヤ識でありこれが意識の土台として人間を制約しているが、大日如来の「心」とは異質なものである。「大日如来の大不思議」から「物界」や「心界」がどのようにして生まれてくるのか?
中沢氏の解説によれば、「大日如来」はこ金剛界マンダラにおいて純粋な叡智体の運動をしめしている。それは、宇宙そのものより大きな実在を表している。この金剛界には内も外もなく、しかし自分自身を外に展開しようとする力を内包している。この力が三次元的な空間に展開するとき、それは「大日如来」の心、叡智を去り、(心の否定でもある)物質を生み出し、宇宙の「物界」を生成するプロセスとなっていく。本来叡智体と物質は同一であるが・・大日如来の心を取り去った物界は、また同時に異質とも言える。そして、「大日如来」から物質プロセスが去っていくのと同時に、その心から、アーラヤ識を土台とする有情の「心界」が分離、生成されてくる・・・これは現代宇宙論の、量子的な「ゆらぎ」が空間としての宇宙とその中の物質を作り出してくる、という説明と同じく、意識を持った生き物の「心界」にも起こり、金剛大日の「ゆらぎ」によってアーラヤ識が物質とともに生まれ、有情の人間の無意識の土台として、心的宇宙がうまれてくる。これを熊楠は「大日滅心の作用」と表現している。・・宇宙論的に言えば、金剛大日の力→叡智・心の否定、除去→特異点(滅心:量子的ゆらぎ)→心界(アーラヤ識)&物界(時空)・・・このようにして生成した「心界」と「物界」が「物心相反応動作」することで、「事」が生ずるのだ。それは心と物がふれあい、交わるところに生まれ、消滅する。「心」と「物」は絶えることがなく、金剛大日のたえまなく湧き上がる力として変転し瞬時も止まらない。
■ところが、「事」は心と物の交差、交わりが解けるときに消滅する、そして事は絶え、「名」を残す。これは現代哲学のエクリチュール(書法・記述行為:話し言葉:パロールに対)の発生について語っている。「事」は発生消滅するが、「胎蔵界大日(物質界)」中に痕跡と名を残すのだ。熊楠の言う「名」とは・無意識の深層構造であり、これが民族や共同体のにアーラヤ識の中にエクリチュールとして痕跡を残していく、そしてこれが、習俗のラング(言語体)を形成するもととなる。心物事がアーラヤ識に残す痕跡(エクリチュール)は無意識の深層構造として共同体や民族の不思議な実体そのものなのだ。現代の構造人類学・・文化人類学?が「名」を出発点においている限り、エクリチュール(痕跡・記述)に帰着起点を制約され、その発生前の空間をとらえることが出来ない(「心」や「物質」が生成され、「事」の生まれるすべてのプロセスを包摂した空間・・大日の滅心:特異点?)。
「ラング」も「名」もアーラヤ識に刻み込まれた具体的な実体を持たない痕跡にすぎない、したがってそれはもう一度、心によって映し出され、「印」を生み出す。・・・これはいつも何らかの映像など具体的な実体と結びつく。言葉においては、それは抽象的なラング(言語体)ではなくパロール(話し言葉)を意味する。それは音楽でも「名」のレベルと「印」のレベルが共存している(記号論のシニフィアンとシニフィエのようなものか?)・・・物心相反応、動作→事→名(原エクリチュール化)→印(象徴:記号の形成)
熊楠は未だ、構造言語学も記号論もない1903年にこの、無意識は「名」として構造化され、「印」を通じてそれを語り、けっして現実界という真実のものを知る事はできない、という精神分析論も量子理論の観測問題もない時代に、未来の学問の全体構造を透視、喝破していたのだ。
■更に、B「縁の論理」によって南方マンダラは力の変化、運動を説明している。「因はそれなくして、果がおこらず。また因異なればそれにともなって、果もことなるもの、縁は1因果の継続中に他の因果の継続が交差し(ざんにゅう)来るもの、それが多少の影響を加うるときは起、縁に至りては一瞬に無数にあう、それが心のとめよう、体にふれようで事をおこし(起)、それにより、いままで続けて来たれる因果の行動が軌道をはずれゆき、またはづれた物が軌道に復しゆくなり、予の曼荼羅の<要言、まぎらわしからずというべし>というべき解はこれにこれに止まる。・・・と熊楠は曼荼羅を説明している。「縁の論理」はマンダラの構造体を変化と力の側面からとらえ、縁によってマンダラは動く。生きた宇宙がここから生まれる。南方マンダラは一つの生命体であり、たえまなく変化し、運動する人間の知性ではとらえられない神秘な秩序を保ちつづけている。宇宙は巨大な森なのだ。熊楠がわずか1台の顕微鏡を手に、那智の森で粘菌のひとつの神秘から、さらに深い不思議の前へ、「大日如来」というマンダラの全体運動の中につつみこまれ、無尽無究、無数の襞を折りたたむ・・人間の生きているこの宇宙はなんと不思議な場所なのだろう!・・森ノバロックで熊楠を代弁して?そう、著者は解説する。
■学問とは、その様子を見て楽しむためにあるのである。また、その楽しみを十分に知りぬいた人のやる学問でなければ、本当に人・世界を豊かにすることなどできない・・・。熊楠は一生涯そういう学問しかやらなかった。そうでない学問などにはなんの関心もしめさなかった。「南方曼荼羅」はそういう人によって、人生に至高の楽しみを与えるための極意として考え出されたものなのだ。「南方曼荼羅」まさに、楽しみは尽きる事がない。・・と中沢新一は語る。
この読書感想の小生の冒頭の疑問、問いへの答えの一つがここにある。この世界に生を受け、生きる喜びの根源,動機がそうあるべきだ。と熊楠はその生き様と曼荼羅で言っているのだろう。制度・規律で縛られた学校を徹底して嫌った熊楠の学ぶ、学問の意味をこのように理解すれば今の受験地獄など消し飛んでしまうのだ。ここには、利他、世界への貢献への重要な動機が「至高の楽しみ」や「自己の喜び、好きな事」に支えられているべきだ、という教訓がある。
一方、時の政府や外交・・・など世俗の世界は、彼にとって・「そうでない学問?否・・事象。事」であり、その事態(戦争)を生起させた、「心」と「物」の両方の本質を見抜いていた?彼にとっては、次元の低劣な関心の外であったのだろうか?。それは一見、ポストモダンの課題からの逃避?回避のように思えるのだが・・否!である。
■そうではないのだ。・・逆に、この南方曼荼羅の視点、世界こそ、人類の置かれた現在の諸困難、課題への唯一の解決方向を示しているのではないかとも思える。狭小近視眼の効率、実利、利益優先で競争原理と市場・資本万能主義・・が全世界を覆い、地球上の自然や人心を破壊し、蝕み、空気も水もかってないほどに汚染している。人間の心界も物界も事の世界も今、錯綜する自業自得の因果、縁で視界不良、その先の光が見えない?・・衆愚の愚鈍から、離れて、いまこそ宇宙と大日如来・叡智の世界・心の声を聞くべきときなのだろう。その声の聞き方がここに示されており、「東西、欧米」と「東洋」、「最先端科学・・量子力学、宇宙論、脳科学」と「華厳経密教曼荼羅の思想」・・これを100年も前から、繋いでいたのが「南方曼荼羅」の思想なのだ。
細分化、要素還元し仮説実験、検証可能な非対称の世界を科学的な唯一至高なものとするポストモダンがその限界?課題としているものがこの大日如来宇宙の対称性、部分と全体を結ぶクラインボトルの時空「ホーリスティックな南方曼荼羅」に象徴されているのだ。
■「森のバロック」から構想10年?を要した「対称性人類学」の中で中沢は熱く語っている。無意識=流動的知性=対称性の世界は純粋贈与や消尽(ポトラッチ)のための利他蓄積・仏教思想を普遍経済の仕組みとして自然界と微妙でデリケートな互恵発展バランスを保っていた。一方、純粋シニフィアンの神ヤハウエイによる無意識の完全抑圧によって世界を国民国家・資本経済・近代科学の3点セットで同質グローバル化した非対称な個人(法人)の「我利=私利益」を基盤とする近代社会・・・エゴ蓄積を原動力として自然界に無条件開放した、ポストモダンのハイテク金融資本経済、同質グローバル化経済は自然・環境を収奪し破壊変容することで発展してきたもので、今日的難問課題はその自然のグローバル有限性と許容限界・・文明そのものの性格=世界を非対称に文節化・記号化・科学することで無邪気に人類の永遠の発展進歩を楽観視することに起因する。
そして対称性無意識を抑圧せず、形而上学化(非対称原理、還元主義)もなしにその能力を発達させることのできる文明の構想は可能であり、ホモサピエンスである人類の「心」の基体=無意識の母体マトリクスは一神教的な非対称論理による致命的な損傷を未だ受けていない、と希望を語っている。
ここでは、メビウスの環としての特異点が「利他」のための蓄積なのだ。それができる社会、出来た人や組織へ賞賛と名誉を社会が与える価値観や倫理・・・・熊楠の曼荼羅はこの対称性無意識=大日の叡智=マトリクスを語っていたのだ。
■何故か私には「南方曼荼羅」の図が脳科学最前線の脳断面CTスキャンの図、神経細胞と1000兆個のシナプス接点、の絵のようにも見えてくる、そこで発火するニューロンやナトリウム・カリウムイオンの情報スパイク、最終生成されるクオリア!それこそ、二度と同じものが再生されないただ一度の「事」、生成起滅する・・パロールなのだろうか?。脳の外を宇宙のイオン電位差(大日如来の叡智=対称性無意識)が彗星の軌跡:南方曼荼羅(ル)として人間の脳内スパイク電位差と共鳴しながら、飛び交っているのかもしれないではないか!そして、冒頭のポストモダン主題への回答がここに示されている!「それが」仏法説話ではなく今こそ、ポストモダンの諸難題や限界を打破する斬新な「叡智」であることに「人類」は気づくべきなのだ・・それは個々の事象を通底しすべてを繋ぎ一挙に解消する力を秘めている!!・・・。
■カイエ・ソバージュX「対称性人類学」については別途読書感想を記してみたいと思っています。