マトの書感想文:book review-04

森のバロック2

森のバロック・南方熊楠(2)
★禁!・・・無断転載・流用。
2011/07/03一部加筆

■南方マンダラが、ポストモダンの主題のひとつである市民社会へどのような変容を可能にするのか?と言う中沢の問いは、先に述べたように熊楠が、当時の時局、時勢へどのような考察分析でコミットしていたのかを知りたい。・・と言う私の庶民的願望と同じではないのか?、 東洋哲理、仏教思想の根底にあるホーリスティックな人間社会と自然の関係、多様性と創造的なダイナミズムを統合する熊楠の「縁の論理」が、華厳思想の更なる精緻化を行い、それをどのように可能にしているのか?この著作で理解することなのだろうと私は勝手に独断している。
私のような、目隠しをされた愚かな馬が、川岸までの案内もなくその水を飲めるのか否か?自信はないが、馬からメクラ蛇の蛮勇?と猿知恵?に変身で・・行ける所までこの中沢山脈を登ってみようと思う。・・Www
飛躍すれば、宇宙的な生気論でもあり、未開社会の世界観であるトーテミズムは多様な自然や諸現象との間にデリケートな配慮や互恵、還元的な知恵を持っていた。・・・それが、ハイテクで同質化、時空矮小化されたポストモダンの市場世界へ有効な 規範や倫理として再生可能なのか?を問うているのだとも思う。
ポストモダンの主題とは、今、消えつつある森のもつ多様性や、すべての生命を宿しカオスを内包しながら常に静止せずコスモスへ創造的に流れる力、また生命の動きが調和による カタストロフィーを大局的にバランスさせる世界、あの森の樹木に囲まれているときの爽快感、心の落ち着き、自由な、神秘的なあの感覚・・・・etcを、グローバリズムで環境を均一同一化し破壊するこの世界に、何とかして再生する事なのだと私は思う。それが、救済を求める一般庶民の素直な願望でもあると確信するからだ。
「森のバロック」とは著者がバロキズムの天才ライプニッツの「一切知」と対比させ、この森を宇宙樹として、存在世界のマトリクスとして、熊楠が高次元のマンダラ理論にとらえたことを表現するために、著書名としたのだろう。

■しからば、南方マンダラとは何か?華厳思想をいかに深化させたのだろうか?著作によれば、ロンドンから、故郷の那智の森へ34歳で帰り、南方マンダラのかたちが与えられたのは明治36年熊楠37歳のときだった。構想から10年近い歳月を要したという。 もちろん、このころ日本人は熊楠の存在を知らなかった。
1893年明治26年、熊楠27歳のとき、ロンドンで彼は、慶応義塾で法学を学び、モダンボーイでもあり法衣を纏った真言僧の土宜法竜に会う、彼はフランスやロンドンで大乗仏教と密教のレーゾンデートル を研究目的で訪欧、この東洋思想が過去の遺物ではなく、新しい世界を開いていく可能性を探っていた。法竜と熊楠のロンドンでの出会いは、相互にとって切磋琢磨の絶好の機会となり、熊楠の大英博物館に集約される西欧諸学問の吸収勉学と同時に、その科学的還元思考万能の欠陥や 限界への気づきから、真言密教、マンダラの思想によって来るべき未来の学問、方法を構想していた熊楠にとって、自分のアイデアと構想のレベルを高める絶好の手ごわい議論相手(後年、高野山管長となる)土宜法竜であった。

■南方マンダラは「心」と「物」が交わるところに「事」が生まれるという概念が核となる。例えば、建築という「事」が建築家の「心」と建材と石や木、鉄などの「物:物質」との交わりで実現すべく「事」として、無形のもの「心」と「物」の境界に生まれると言う。
設計図もまた「事」として 「建築アイデア:心」と物質である「設計図の描き方、紙」という物質と出会いにより、「事」となる・・ 記号や表象が抽象、汎用化のために関連するものは全て、「事」として、連鎖として出来上がっている。要するに、純粋に「心だけ」とか、「物だけ」などというのは、人間世界では意味をもたず、あらゆるものが「心」と「物」の交わるところに生まれる「事」として現象している。しかも、「心界」における運動は「物界」の運動をつかさどるものとは違う流れ、原理にしたがっている。「物界」で因果応報ということが確実におこるのに、純粋な「心界」で因果応報がおこるとは限らない。悪い考え、「心」があっても「物界」と出会い、その流れに巻き込まれなければ、因果応報に直結はしない。
「事」 は異質なものとの出会いに生成され、再び、「心」と「物」にフィードバックされる。この連鎖から人間にとって意味のある世界が作り出され、その中から原則、がみいだせる筈だと熊楠は仏教の哲理から直観した、と著者は南方マンダラの来歴で解説、説明している。
更に、もっとも重要な「事」は対象として分離することができない。「心界」が異質な「物界」と出会い「事」の痕跡が生まれるが・・もともと「心界」につながる「事」は知性には「物」のように対象化し、分離して扱えない。
分離不能、対象化不能なダイナミックな運動である「事」を扱えなければ、どんな学問でも自分は世界をあつかっているなどと大口をたたけなくなる。中沢新一らしいこの熊楠マンダラへのコメントは・以下であろう。

■この「心界:物界」「事」 の視点が、量子論の誕生によって初めて直面したハイゼンベルグの不確定性原理やシュレディンガーの「波動関数・波束の収縮」=「観測問題」:量子の運動が観測されているときには必ず人間の意識の働きが関与している(量子の位置と運動量エネルギーは同時に測定できない?不確定性)(熊楠・・・どんな物質現象もそれが人間に意味を持つときにはすでに「物」ではなく「心界」と「物界」の境界上の「事」として現象し、決定不能となる)量子・光子は波と粒子の同時存在を人に見せない・・観測という意識が介在した瞬間?さらにはその意図を察知、先回りしてどちらかの存在を選択し収斂する=「遅延選択」。ひょっとすると、「月はあなたが見ていない時には存在しないのかもしれない」そして部分、細部は常にその全体を包摂し相互に矛盾しない・・。量子物理学は今日もそのパラドックスに満ちた「事」世界:不確定性原理=「観測・波束収斂問題」を記述するために・・巨大なサイクロトロン:LHCを使い模索・研究を続けている。「新たな量子テクノロジー」はアインシュタインの相対性理論に対し、新しい「コペンハーゲン解釈」や「量子の確率選択」を提示し、インフレーション:ビッグバン宇宙論を根底から崩壊させるかもしれない。・・・・熊楠は量子理論の生まれる30年も前から「事」として作り出される世界の実相を明らかにする方法を模索していたのだ・・この量子理論へのコメント跳躍はまさに中沢節らしい斬新?な切り口である(ハイゼンベルグ不確定性原理・位置、運動量・シュレヂンガー波動関数・波束収縮・・・は小生の独断蛇足追加解釈です・・)。事のすべてが脳内現象?の結果だとしても、その脳自信がコンピュータの自己解析のように、自己分析を既にはじめていた・・・。つい最近の、ニューサイエンスや量子論の誕生の100年近くも前にそれが熊楠によって思考されていたのだと言う事に改めて驚く。

■独断私見で更に付け加えれば、「事」的世界とは人間の主観、デカルト的世界観、コギトエルゴ・・の宿命、人間の脳の宿命でもあり・・事的世界観:世界の共同主観的な存在を共有することで人間世界が構築されている。主観たる「心界:脳科学?意識?」と「物界」の極微の量子物理学と宇宙マクロをつなぐ 大統一理論にも?要素還元、細分化科学と複雑系にも?構造主義、記号言語学・文化人類学・ポスト構造主義への社会科学へも通底する根幹課題の先見性で熊楠は世界を観て いたのだと思う・・・・・・超人・巨人として。

■森のバロックで中沢氏は、南方マンダラが1)不思議の体系、2)マンダラの構造、3)縁の論理、の3つから出来ており、各側面からこれを説明している。まず、「@不思議の体系」ではそれまで「世界」「現象」などと呼んでいたものを「不思議」と言う言葉で言い直すことで、存在世界には底がない、きりがない、という熊楠の直観を強調している。「心不思議」「物不思議」「事不思議」さらに「理不思議」として大日如来の大不思議が付け加えられることで、諸不思議のおりなす重層的な全体構造を表すものとして理解しなおされている。
「心」も「物」も「事」も其々複雑な構造をもっているが、カオスへ投げ込んでしまうのではなく何らかの秩序を全体として持っている。人間の知性も同じように「心・物・事」の重層構造体として作られているために、双方の構造体が共鳴状態を求めるように、知性は森羅万象の中に秩序を捜し求めようとする。ところが・・この不思議の世界、森羅万象は底なしのタマネギ状の重層構造で、知性がある不思議に何らかの秩序を見出しても、即、その更に底に深いレベルの実在・・不思議が動いていることを見出してしまう。ものごとの理解が深まれば深まるほど、新たな未知、不思議が顕れてくる・・那智の森の中で熊楠はそれを直観し「不思議」と呼んだのだ、と中沢氏は解説する。
更に、熊楠は近代科学が、「物不思議」の中に秩序、順序を見出し、みごとな成功を収めつつあるが・・それは「原理」ではなく現象の「構造」にすぎない、科学的な要素還元の手法、思考にはそれ自体が順序、秩序の抽象構造を持っており、「理不思議」が宿っていて・・決して合理的に捕らえつくすことは出来ないのだと論理哲学的な限界まで見抜いている。このようにして、宇宙は諸不思議の複雑重層化した集合体として・・多次元的な断面図?だと言われる・・南方マンダラの図へと繋がっていく。

フラクタルジュリア集合/南方マンダラ

■南方マンダラの図は、宇宙では、一切の不思議、事理が全体運動を行い変化をおこしており、無尽のこの事理、不思議を人間の知性は捉える能力を与えられている。人間の知性自体が、宇宙から与えられたものだからだ。 人間の知性は互いに異質な不思議同士が出会ったり、結びあったり、交差しているところ「萃点(すいてん)」だと、関心を引き付けられ、そこに集中している事理、不思議の数が多いほどより早く、より簡単にすじみち、秩序を認識できるようになっている。と南方マンダラの 解説を中沢はする。ごちゃごちゃいっぱいに線が書き込んであるところは可知空間で、その外側に事理宇宙を遠くかすめて飛行するような1本の彗星のような線(ル)は可知世界の外でこれを知る手がかりがないように見えるが・・ 人間の知性にはそういう場合にも、(ル:理不思議)の本質を推測することが出来る。それこそが「理不思議=大日如来の大不思議・の力」なのだ。
「理不思議」には認識したり、記述したりするだけではなく、未知のものの存在を予言したり予測したりすtる力もある。人間の知性には表面に顕在化されないものまでも推論の力でとらえ、隠されていたものの実在が浮上してくることにも力を発揮する。湯川秀樹のπ中間子の発見がこの推論の力であり・・湯川自身が「存在の理法」とこの力を呼んでいる、と中沢氏は語る。

■Aマンダラの構造:熊楠によれば、「大日如来の大不思議」:胎蔵界大日・・・大日如来の心から、:金剛大日=物界と心界が生まれ、この二つ交わりや反応、動作から「事」が作り出される。大日如来の心は人間の「心界」と「物界」まき込んだ全体運動をおこなう、高次元の叡知的な実在をしめしている。人間の「心界」は有情のアーラヤ識でありこれが意識の土台として人間を制約しているが、大日如来の「心」とは異質なものである。「大日如来の大不思議」から「物界」や「心界」がどのようにして生まれてくるのか?
中沢氏の解説によれば、「大日如来」はこ金剛界マンダラにおいて純粋な叡智体の運動をしめしている。それは、宇宙そのものより大きな実在を表している。この金剛界には内も外もなく、しかし自分自身を外に展開しようとする力を内包している。この力が三次元的な空間に展開するとき、それは「大日如来」の心、叡智を去り、(心の否定でもある)物質を生み出し、宇宙の「物界」を生成するプロセスとなっていく。本来叡智体と物質は同一であるが・・大日如来の心を取り去った物界は、また同時に異質とも言える。そして、「大日如来」から物質プロセスが去っていくのと同時に、その心から、アーラヤ識を土台とする有情の「心界」が分離、生成されてくる・・・これは現代宇宙論の、量子的な「ゆらぎ」が空間としての宇宙とその中の物質を作り出してくる、という説明と同じく、意識を持った生き物の「心界」にも起こり、金剛大日の「ゆらぎ」によってアーラヤ識が物質とともに生まれ、有情の人間の無意識の土台として、心的宇宙がうまれてくる。これを熊楠は「大日滅心の作用」と表現している。・・宇宙論的に言えば、金剛大日の力→叡智・心の否定、除去→特異点(滅心:初期宇宙の量子的ゆらぎ)→心界(アーラヤ識:有情の無意識)&物界(時空)・・・このようにして生成した「心界」と「物界」が「物心相反応動作」することで、「事」が生ずるのだ。それは心と物がふれあい、交わるところに生まれ、消滅する。「心」と「物」は絶えることがなく、金剛大日のたえまなく湧き上がる力として変転し瞬時も止まらない。

■ところが、「事」は心と物の交差、交わりが解けるときに消滅する、そして事は絶え、「名」を残す。これは現代哲学のエクリチュール(書法・記述行為:話し言葉:パロールに対)の発生について語っている。「事」は発生消滅するが、「胎蔵界大日(物質界)」中に痕跡と名を残すのだ。熊楠の言う「名」とは・無意識の深層構造であり、これが民族や共同体のにアーラヤ識の中にエクリチュールとして痕跡を残していく、そしてこれが、習俗のラング(言語体)を形成するもととなる。心物事がアーラヤ識に残す痕跡(エクリチュール)は無意識の深層構造として共同体や民族の不思議な実体そのものなのだ。現代の構造人類学・・文化人類学?が「名」を出発点においている限り、エクリチュール(痕跡・記述)に帰着起点を制約され、その発生前の空間をとらえることが出来ない(「心」や「物質」が生成され、「事」の生まれるすべてのプロセスを包摂した空間・・大日の滅心:特異点?)。
「ラング」も「名」もアーラヤ識に刻み込まれた具体的な実体を持たない痕跡にすぎない、したがってそれはもう一度、心によって映し出され、「印」を生み出す。・・・これはいつも何らかの映像など具体的な実体と結びつく。言葉においては、それは抽象的なラング(言語体)ではなくパロール(話し言葉)を意味する。それは音楽でも「名」のレベルと「印」のレベルが共存している(記号論のシニフィアンとシニフィエのようなものか?)・・・物心相反応、動作→事→名(原エクリチュール化)→印(象徴:記号の形成)
熊楠は未だ、構造言語学も記号論もない1903年にこの、無意識は「名」として構造化され、「印」を通じてそれを語り、けっして現実界という真実のものを知る事はできない、という精神分析論も量子理論の観測問題もない時代に、未来の学問の全体構造を透視、喝破していたのだ。

■更に、B「縁の論理」によって南方マンダラは力の変化、運動を説明している。「因はそれなくして、果がおこらず。また因異なればそれにともなって、果もことなるもの、縁は1因果の継続中に他の因果の継続が交差し(ざんにゅう)来るもの、それが多少の影響を加うるときは起、縁に至りては一瞬に無数にあう、それが心のとめよう、体にふれようで事をおこし(起)、それにより、いままで続けて来たれる因果の行動が軌道をはずれゆき、またはづれた物が軌道に復しゆくなり、予の曼荼羅の<要言、まぎらわしからずというべし>というべき解はこれにこれに止まる。・・・と熊楠は曼荼羅を説明している。「縁の論理」はマンダラの構造体を変化と力の側面からとらえ、縁によってマンダラは動く。生きた宇宙がここから生まれる。南方マンダラは一つの生命体であり、たえまなく変化し、運動する人間の知性ではとらえられない神秘な秩序を保ちつづけている。宇宙は巨大な森なのだ。熊楠がわずか1台の顕微鏡を手に、那智の森で粘菌のひとつの神秘から、さらに深い不思議の前へ、「大日如来」というマンダラの全体運動の中につつみこまれ、無尽無究、無数の襞を折りたたむ・・人間の生きているこの宇宙はなんと不思議な場所なのだろう!・・森ノバロックで熊楠を代弁して?そう、著者は解説する。

■学問とは、その様子を見て楽しむためにあるのである。また、その楽しみを十分に知りぬいた人のやる学問でなければ、本当に人・世界を豊かにすることなどできない・・・。熊楠は一生涯そういう学問しかやらなかった。そうでない学問などにはなんの関心もしめさなかった。「南方曼荼羅」はそういう人によって、人生に至高の楽しみを与えるための極意として考え出されたものなのだ。「南方曼荼羅」まさに、楽しみは尽きる事がない。・・と中沢新一は語る。
この読書感想の小生の冒頭の疑問、問いへの答えの一つがここにある。この世界に生を受け、生きる喜びの根源,動機がそうあるべきだ。と熊楠はその生き様と曼荼羅で言っているのだろう。制度・規律で縛られた学校を徹底して嫌った熊楠の学ぶ、学問の意味をこのように理解すれば今の受験地獄など消し飛んでしまうのだ。ここには、利他、世界への貢献への重要な動機が「至高の楽しみ」や「自己の喜び、好きな事」に支えられているべきだ、という教訓がある。

■熊楠の思想が曼荼羅や密教や華厳・唯識仏教哲学・に繋がるのは、純粋な書斎、形而上の思念ではなく、学問的な楽しみ、フィールドワークとしてアメリカ滞在中の中米や那智の森で彼が採取、観察・研究したキノコや苔類などの隠花植物、特に、「粘菌:変性菌」についての地に足のついた研究と実体験「南方粘菌学」がその思想の骨格となっているのだ。
隠花植物や粘菌、ミケトゾアと呼ばれる動物のような「アカモジホコリ」のライフサイクルは、顕微鏡の開発された当時の西欧生物学やナチュラリストの研究分野として最先端となっていた。熊楠は欧米主流の形体や機能分析、分類的な可視的構造よりも、植物でありながら原生動物のような活動を行う粘菌は不可視の空間で、何か生命の本質を示す力、生気を秘めており、古典主義的な分類学や新種の発見自体はその目的自体ではなく、たえまざる変化を続けている生命の内部、不可知空間を凝視、沈思しなければならないと考えていた。
粘菌は常に変形し決定的なライフスタイルや、これぞ種、などは必要なくすべてが中間種・異体を示す。生命活動が絶えず変化の途上にあり、生物が生きている、死んでいるとは?その現象とはより本質的なものの二次的な射影ではないのか?熊楠はこの難問を粘菌を前に本気で考え抜いていた。外側から可視的な「科学生物学」で観察・解剖・分類・推論されるだけでは実相は捉えられない。
南方の「博物学」は、ゲノムや遺伝子などの単一原理で多様性を説明、記述しようとする一神教的な発想と異なり、多神教的な個々の神々や現象を知覚し、思考する己も同格で並びあう世界、それを南方曼荼羅という世界で表現したものなのだ。
それは、物理学のようなハードサイエンス:要素還元手法で観察者が客観的に生命を「有機システム」が活動していると見るサイバネスティクスやシステム論ではなく、「観察者の相対化」による客観的な観察者の介在しない生命論なのだ。 生命のホメオスタシス:環境からの情報インプットそれに反応行動するアウトプット・・自己同一性の再現、安定性の確保という生命システム、バイオロジー自律体から「密教的な」生命システムとしての「南方曼荼羅」。

■客観観察者からは死んで見える・・・粘菌の原形体ライフサイクルも実は胞子・胞壁に異体しているに過ぎずない。 熊楠は「生命にとって現実と幻想の間の区別は無い」・・と観察者を相対化した。
彼は自分の得たこの生命直観を仏教の表現から論理化する。現実の生:この世は、反転鏡像として、幻想:死・あの世の:地獄に反映する「涅槃経」の世界のイメージか・・この世の人間のありかたと、地獄の人間のありかたは鏡像のように繋がっていて、それ自体が完結している訳ではなく、より根源的な:なにものか「空:真如:心:連続するもの」が生命システムのある条件に拘束された時に現われる、現実・や幻想である、と言う。つまり、ある生命システムにとっての現実は幻想と一体であり、ある生物がいだく幻想もその生命システムの条件から作り出される。生物にとって、現実と幻想の本質的な違いはな。現実なるものは幻想と同じように、ない。
・・六道輪廻の有情:神・阿修羅・人間・餓鬼・動物・地獄・・現実の多次元での幻想との対応構造を仏教思想で語る、「生物は開放的な有機システムとしてインプット・アウトプットをしている訳ではなく、輪廻を生きる生物に外部はない、彼等にとっての外部は内部の変形したものに過ぎない。したがって、生命システムが外部とインプット・アウトプットしているように描く事は観察者がつくった二次的な図式にすぎない」それが熊楠生命システムへと繋がる。
★自然界ではこの腐敗した植物の森に生きる変性菌が500種類も存在する。顕微鏡レベルの大きさの有機体の奇妙な特性は 原子内の波動/素粒子という二元性にも似たふたつの異なった形式において存在できると言うことだ。ハイゼンベルグが示した 量子レベルの限界では・・観測者自身が量子レベルに分かちがたく結びつき観測測定の行為そのものが、システムそのものを撹乱してしまうのだ。マクロな観測者の存在なくして量子レベルを語れず、ミクロ量子レベルもマクロの条件ずけ無しに語れないと言う現実。これは並行した鏡の中の鏡像が相互に相手を包み込んだ無限の姿に似通っている。 ハイゼンベルグの不確定性原理が語られる以前に、熊楠はこの変性菌の一種である「アカモジホコリ」の還元主義的な分析からはみ出した集合的な集団的振る舞いが一個体の中に組み込まれている姿に、語りきれない非線形な自然界・宇宙の基底にある何か別次元の『智』を嗅ぎ取っていたのです。単純な分裂・増殖から拡大し、環境がある臨界点に達すると広がる漣のように各細胞はまったく新しい凝縮を開始し、コロニの独立した細胞体から一つの多細胞有機体へ変身する。この多細胞有機体はまるでナメクジのように森の中を移動開始する。それは個人は其々独立した人間ではあるが群集は個人にも織り込まれており、お互いが外部でもあり内部であるようでもある・・ではないか。

アカモジホコリカビ

■生命にとって、「内部と外部の区別は意味をもたない」生命システムの外部観察者の観察と生物の自ら作り出した内部・外部とは一致しない・六道輪廻の有情には客観外部などは存在せず単なる「戯論」である。科学的生命論などその最たるもの。
南方熊楠の考え方では、常識や科学の考えている生と死は生命そのものではなく生命そのものが収斂して存在者でできた世界にあらわれた状態をさしているにすぎない。生が灯、死が闇であるとしたら、生命そのものとは同時に灯として輝き、闇として飲み込む二つのプロセスをひとつとして絶え間なく活動する「なにものか」なのだ。
存在、それは私論で蛇足すれば「ハイデガーの存在と時間」にあるような生、スパークリングし、「生成起滅する」存在。輝く蝋燭の灯のようなもの、世界劇場的な何かなのだろうか?この「なにものか」は空間的に表象化することはできない。生と死を超えた二元論を超えた会域で生命そのものは活動している。この仏教唯識の思想と欧米の科学的手法、要素還元論が、博物学的・民族学視野でハイブリットに中沢氏の解説で語られているのだが、時として、思考のかなりの跳躍を要求される。

■熊楠は「生命」の学問をめざす程の人間には、この「なにもの」かに対する直観力が必要だと考えていた。19世紀的な単純な欧米の生気論などでもなく、システム論的な西欧「バイオロジー」でもない、底なしの謎である生命の学問へ、東アジアの唯識仏教・密教マンダラの切り口から別の近代的な「バイオロジー」を開こうとしていた。
熊楠の考えていた生命観は現在のニューサイエンス思想の、オートポイエーシス論に驚くほど共通性を示している。多くのニューサイエンス論が東洋思想の取り込みで西欧型の要素還元的なアプローチや思考の限界を打破しようとしているが・・オーポイエーシス論は西欧型システム思考法の延長、深化から生まれてきた。特徴は・・・・
@生命システムは自律性(オートノミー)変化適応能力を備えている。A生命システムは自己組織する能力で自己同一性を維持している。B生命システムは自己の境界を産出ネットワークの中から自己決定している。Cオートポイエーシスとしての生命システムではインプット(入力)もアウトプット(出力)もない。(神経組織や眼球は刺激に反応するために作動している訳ではない)

■・・・ここから生命システムはインプットもアウトプウトも無いという結論:生命は自己の境界を構成要素を産出しながら自己決定・自己組織している。つくりだされた「外」は「内」と区別がつかない。二つの領域はメビウスの帯のように繋がっている。バイオ先端科学者の福岡伸一氏が生命体とは「中空のチューブ的な存在」と言ったのも、インプットの口から排泄の肛門までは体の外部である中空の管であり、一見、内部のようでありながら、それは外、厳密な内部は消化器官から外部の異物タンパク質を分解し、アミノ酸ペプチドとして取り込み、初めて内部となる。と述べているが自己同一性維持のため、免疫機能が異物DNAのタンパクを吸収可能なアミノ酸へ徹底分解するのだ。生命体はメビウスの帯・トポロジカルな構造でそのサスティナビリティーを支えているのだ。これは生命の自己境界の維持、オートノミー自律システムを象徴している。

■ここで、中沢氏の解説、熊楠の生命論とオートポイエーシスが繋がった?笑)
六道輪廻の有情:三千大世界の生命はすべて自己言及的で自業自得、まことの「外」はなく、永遠のトポロジーを輪廻している・・メビウスの環を巡る?餓鬼は餓鬼のシステム同一性で他の生物同様に輪廻しているのだ。このオートポイエーシス論は客観的観察者の立場を徹底排除することで、絶対的観察者としての「神」を生命論から排除してしまった。

■熊楠が粘菌の研究を通じて得た客観的観察者の位置を排除して相対化し、「内在」の視点から生命を捉える考え方に、オートポイエーシスの生命システムの自律性と個体性の問題意識をドッキング、「マンダラの構造体」として中沢氏は描き出す。 熊楠の生命論は環境の中に入れ子になった生命システムであり、生命と外部である環境とはメビウスの帯のような関係をもっている。東アジアの生命論は巨大な環境全体との連関でとらえられる。今、外部環境との共生の生命観が西欧思考の極限的オートポイエーシスと互いに鏡像のように近づき、共通の象に収斂するような感じだ。生命が環境の中に埋め込まれながら自律性をもったひとつの個体として生きている。それが自己と他の生命の本質を考えながらこの世界を豊に生きる「マンダラ」なのだ。

マンダラ


■「マンダラ」の中にこそ西と東を繋ぐ「蝶番」が隠されている。それは生命は個体であり自律体であり、環境の中に多次元的に埋め込まれているという全てを統合する力を持っている。また科学的手法や認識と哲学的な思惟を矛盾無く豊かに対話させる条件をつくりだす。
ふたつの「マンダラ」の一つは「ニルバーナ・マンダラ(金剛界)」であり、一方は「サンサーラ・マンダラ(胎蔵界)」と呼ばれている。ニルバーナには生死もなく、けして触れる事の出来ない絶対的な「外」へ開いている・・そこに満ちている「力」は如何なる意味での 境界もつくらず、したがって、内部も外部もない。自己も世界もない。熊楠は大日如来をそういう「ニルバーナ・マンダラ」として 描いている。熊楠は大日如来の「大不思議」は決して人智で捉えることができない、絶対的な「外」と語っているが、西欧的生命観である オートポエーシス論でも生命システムにとっては絶対的な「外」は存在しなくなってきている。しかしながら、唯識仏教、アジア思想では 輪廻(サンサーラ)にあるすべての生命システム(存在)は決してそのシステムの外にあるニルバーナ・マンダラに触れる事ができないと言っているが・・同時に生命システムにはそのような絶対的「外」に対して自己を開いてゆく可能性が閉ざされておらず、とくに人間という生命システムの場合は、そのような「開け」が常に可能性として開かれており、その道を歩むことが生命システムに豊かさをもたらす。と、中沢は解釈する。
この「開け」を陳腐な「悟り」?などと置き換えてはいけないのだろう・・・『ニルバーナへの開け』を彼が言うように空間的に表象化することなど、できないのだ。ましてや、LHCでの素粒子物理学の知見(反物質粒子)や宇宙論の「宇宙の暗黒物質・暗黒エネルギー・重力」などへ推論する事は誤解冒涜となるのでしょうか・・否素人ならではの暴論推論は楽しければ良いのかもしれません。


■この「ニルバーナ・マンダラ」が生物生命システムの中に「堕ちこんだ」瞬間からそれは「サンサーラ・マンダラ」に変身する。哺乳類ならば母親の胎内で受精が起こった瞬間から、サンサーラ・マンダラの活動が始る。サンサーラの土台となるのはアーラヤ識と呼ばれる、生命システムの意志であり、自己形成とその維持と言う強力な力により自己形成を行い、生命システムの境界と外部をつくりだす。しかし この境界や外部は「アーラヤ識の自己組織活動」によってつくられたものであるから言わば「幻影」としてつくられており、したがって生命には本当の「外」ではないのだ。こうして、生命システムは自己(空間的認識ではなくトポロジカルな点)を中心としながら、自己と世界をつくっていくマンダラとしての活動を行う(共同主観的な存在構造?・・世界劇場・・コギトの世界?)このマンダラ=サンサーラは本質的にはニルバーナ・マンダラと同一であり、大日如来というニルバーナ・マンダラが生命体を通して、絶え間なく活動しているのだが、輪廻にある生命体には、その自己形成も境界ももたないニルバーナ・マンダラが自分の本質をなしている事がまったく見えない。アーラヤ識という「雲」がその認識を阻んでいるからだ。生命は内部と外部がメビウスの帯になった絶対的な外に触れることなく・・輪廻のサイクルを生きることになるのだ(この解説は唯識仏教の経典や般若心経の解説のようだが・・一切衆生草木国土悉有仏性?・・よりも現代知性、教養にとって判りやすい・・中沢氏に感謝。既存宗教・仏教各派はその翻訳能力、責任を痛感すべきでだろう)

■マンダラという言葉には「本質をあつめたもの」という意味があり、生命体であるサンサーラ・マンダラでは、あらゆるものが本質的な関連のもとにある。生命システムが空間的に互いに切れたものではなくすべて、本質的な繋がりにある状態、マンダラとは全体の活動を統一するトポロジーの事なのだ。この考え方の先には生命システムの本質を追求するにはいくら、客観的な空間的に表出されているものを研究しても無駄であり、空間的直観がとらえることのできない、ひとつのトポロジー(位相幾何学のトーラスとカップの連続性や距離を位相として見る低次元空間から、学際最先端の?DNA位相幾何学まで・・・イメージ?)として探求しなければならない。マンダラには大きさがない、宇宙から素粒子のように小さくもなれると仏教が語っているのは、トポロジカルな同一性にも関係があるのだろう。
また、マンダラには中心と辺縁という意味もある、これは空間的な意味ではなく生命体の執着する自己と作り出した境界のことでありここでもトポロジカルな、中心と辺縁を同次元にもった生命体の事態、をマンダラが表現している。

■生命体は自律性・自己創出の意欲を内在させることで個体性を維持しているが・・その個体性の本源で「本質をあつめたもの」でなければならない。生命システムの自律性・個体維持はばらばらに個体が存在するのではなく、生命のサンサーラ・マンダラが本質的に自己真実であるニルバーナ・マンダラと一体の活動を行っていることで存在、個体の維持ができている。

■それはまた、生命現象とは1980年にルドルフ・シェーンハイマーが、発見した細胞内の絶え間ない分子の、交換、動的な平衡状態の上に成り立っていると言う・・・・可変的でサスティナブルな生命システムであり、「動的平衡」で福岡伸一氏が語るように、要素還元思考で細分化した、構成分子構造に依存しているのではない。生命現象とは、その流れ「時間と情報=マンダラ?」がもたらす「効果」なのだ。人のゲノム解析から抽出合成されたタンパク・2万種類以上のアミノ酸・ペプチドスープからは生命は立ち上がらない。テレビをいくら分解しても映像という生命現象は発見できないように、そこには、テレビの本質=生命本質である情報・時間という効果が欠落しているのだ。
生命システムの「動的平衡」は私の比喩、アナグラムでここに『マンダラ』と合体する。

■生命システムがマンダラであることで、生命の維持、破壊からの保護がなされているのだ。生命を守っている慈悲と愛はニルバーナ・マンダラに根源を持っており、生命が直観している慈悲と愛は境界もなく、無限なのだ。マンダラを生命システムと見るとき、「因果論」は不完全であり、「幻影」が各生命システムのアーラヤ識ごとに創出され、「幻影のネットワーク:共同主観?世界劇場?」が生まれてくる。またマンダラは「重層構造」を持っており人間の生命システムも解剖学的に見れれマンダラ重層構造である・・

■生命は自分がマンダラの本質を持っていることを知る事で落ち着きと安らぎをみいだすことができる。そのとき、自己と世界のすべてがある・・トポロジカルな「会域」において、本質的なつながりを再発見するからなのだ。輪廻にある生命は自分がサンサーラ・マンダラとしてつくられており、それはニルバーナ・マンダラと同一のものでありながら、同時に「堕ち込んだ」ものであることを知ることで初めて自由をしることができる。と中沢氏は東アジアの思想を解説し、オートポーエーシス論が生物学で切り開こうとする認識を語る。

■ポストモダンの課題と熊楠マンダラの世界について、冒頭その接点は?などと記したが浅薄軽率だったと恥ずかしくなります。・・・・(世俗の世界は、彼にとって・「そうでない学問?否・・事象。事」であり、その事態(戦争)を生起させた、「心」と「物」の両方の本質を見抜いていた?彼にとっては、次元の低劣な関心の外であったのだろうか?。それは一見、ポストモダンの課題からの逃避?回避のように思えるのだが)・・
否!である。「マンダラ」の生命観を育む豊かな森。その環境を支える日本各地にある神社仏閣・・民話と伝承の森を明治政府は、近代化の宗教・精神装置として国家神道を中心とした神社仏閣の合祀運動を行い、村々鎮守の森を合祀破壊した。
熊楠は那智から和歌山・日本全域で身を挺してこの合祀に反対し、森の環境エコロギー保護を天皇にまで訴えていた。・・・それは切り口は異なるが近代帝国主義国家による環境破壊・世界大戦への強烈な抗議でもあった。熊楠は合祀の先にある国家の愚挙を見抜いていたのだ。きわめて現実的な環境保護運動をしながら彼は、ある意味、輪廻に翻弄される衆生の社会の有様に失望し、世俗への知的好奇心・関心を失っていたのかもしれない・・・・

■だが、今この南方曼荼羅の視点、世界こそ、古くて新しい?人類の置かれた現在の諸困難、課題への唯一の解決方向を示しているのではないか。狭小近視眼の効率、実利、利益優先でと市場・資本万能主義・・ハイテクノロジーと大脳古皮質のエゴが合体し動物アラーヤ識にすべてを一任?金融貨幣情報が一元的(一神教的)な価値を象徴交換し、全世界を覆う。地球上の自然や生命・文化の多様性を破壊し、蝕み、空気も水もかってないほどに汚染している。遂にはこの世に存在していなかった核物質にまで手をだし、地球規模の原発大事故・大惨事まで引き起こした。人間の心界も物界も事の世界も今、錯綜する自業自得の因果、縁で視界不良、その先の光が見えない?地球は今、この衆愚のエゴに耐えられない程、縮小している
・・衆愚の愚鈍から、離れて、いまこそ宇宙と大日如来・叡智の世界・心の声を聞くべきときなのだろう。その声の聞き方がここに「マンダラ」「蝶番」として示されており、「東西、欧米」と「東洋」、「最先端科学・・量子力学、宇宙論、脳科学」と「華厳経密教曼荼羅の思想」を繋ぐ・・これを100年も前から、教えていた「南方マンダラ」の思想なのだ。
細分化、要素還元し仮説実験、検証可能な非対称の世界を科学的な唯一至高なものとするポストモダンがその限界?課題としているものがこの大日如来宇宙の対称性、部分と全体を結ぶクラインボトルの時空「ホーリスティックな南方曼荼羅」に象徴されている。それは、心、物、事、理の不思議が多次元的に複合しながら無尽に運動する全体構造=「大日如来の不思議」として世界をとらえ直す事なのだ。

■「森のバロック」から構想10年?を要した「対称性人類学」の中で中沢は熱く語っている。無意識=流動的知性=対称性の世界は純粋贈与や消尽(ポトラッチ)のための利他蓄積・仏教思想を普遍経済の仕組みとして自然界と微妙でデリケートな互恵発展バランスを保っていた。一方、純粋シニフィアンの神ヤハウエイによる無意識の完全抑圧によって世界を国民国家・資本経済・近代科学の3点セットで同質グローバル化した非対称な個人(法人)の「我利=私利益」を基盤とする近代社会・・・エゴ蓄積を原動力として自然界に無条件開放した、ポストモダンのハイテク金融資本経済、同質グローバル化経済は自然・環境を収奪し破壊変容することで発展してきたもので、今日的難問課題はその自然のグローバル有限性と許容限界・・文明そのものの性格=世界を非対称に文節化・記号化・科学することで無邪気に人類の永遠の発展進歩を楽観視することに起因する。近代医学に象徴されるような部門細分化、局所要素最適の追及が忘却・無視してきた生命全体との対応関係を今取り戻さなければならないのだろう。
そして対称性無意識を抑圧せず、形而上学化(非対称原理、還元主義)もなしにその能力を発達させることのできる文明の構想は可能であり、ホモサピエンスである人類の「心」の基体=無意識の母体マトリクスは一神教的な非対称論理による致命的な損傷を未だ受けていない、と希望を語っている。
ここでは、メビウスの帯としての特異点が「利他」のための蓄積なのだ。それができる社会、出来た人や組織へ賞賛と名誉を社会が与える価値観や倫理・・・・熊楠の曼荼羅はこの対称性無意識=大日の叡智=マトリクスを語っていたのだ。

■先端物理科学の不正確な解釈から、独断すれば・・何故か私には「南方曼荼羅」の図が脳科学最前線の脳断面CTスキャンの図、神経細胞と1000兆個のシナプス接点、の絵のようにも見えてくる、そこで発火するニューロンやナトリウム・カリウムイオンの情報スパイク、最終生成されるクオリア!それこそ、二度と同じものが再生されないただ一度の「事」、生成起滅する・・パロールなのだろうか?。そして今、見直し、否定の?可能性さえある初期宇宙ビッグバン:インフレーション宇宙理論、この理論が正しければ・・何故?全宇宙エネルギーに占める物質総量が(全銀河星の総質量は10の50乗トン)僅か4%たらずであり、残りの26%がダークマターと呼ばれる正体不明の暗黒物質と70%を占める「ダークエネルギー」なのか、その原因が判らなければならない・・正に、不思議の世界、物界は底なしのタマネギ状のトポロジカルな重層構造なのだ。

スイスCERNのLHCでは神の粒子と言われるヒッグス粒子や反物質粒子・重力粒子など対称性粒子の発見で大統一論へ接近しようとしているのですが・・・おそらく私の直観では、宇宙や自然界の基底にあるものはスパコンで解析記可能な構造やシステムから程遠い、相互補完的な対称的内臓秩序的なものなのだろう。基底は多分、対称性と秩序原理だけ?で、この実在秩序はわれわれの宇宙に成長や調和のパターンとして顕れる・・多くの現象はこの高次元の秩序から生成されるのではないか。
物(宇宙・素粒子)不思議と理(数学理論)不思議の最先端。だが・・「心不思議=マンダラ」は依然として放置され叡智としての重層構造への進展は見えてこない。熊楠ならこの状況を何と言うのだろうか・・・・物界:全宇宙、脳の外を、心界の:イオン微弱電位差(大日如来の大不思議・叡智=対称性無意識:ニルバーナ・マンダラ)が彗星の軌跡:南方曼荼羅(ル)として人間の脳内スパイク電位差と共鳴しながら、飛び交っているのかもしれないではないか!もうそれに気が付いて欲しい。そして、冒頭のポストモダン主題への回答がここに示されている!「それが」唯識仏法説話ではなく今こそ、閉塞限界の人類の困難を打破する斬新な「叡智:量子の波束収縮:超光速ホログラム:マンダラ」であることに「人類」は気づくべきなのだ・・それは個々の事象を通底しすべてを繋ぎ一挙に解消するフリーで無限の力”ダークエネルギー”を秘めているかも知れない?と思うのです・・・


■南方熊楠:「森のバロック」読書感想T・Uを以上で一応終わります。恐らく・・著者の中沢新一氏も巨人、南方熊楠もこの遠大深遠なマンダラへの知的挑戦と探索にすべてを賭ける価値を見出しているのだと思います。私もまた・叡智の「蝶番:マンダラ」の世界。「内」と「外」、「顕花植物」と「隠花植物」が、仏教の「顕教」と「密教」のごとく互いにトポロジカルに共存しあいながら、世界の真実を異なる方法で表現する其々の位相を繋ぐ、「蝶番マンダラ」への知的興味を持続させ、楽しみながら、学んで行きたいと思います。
ここまで思いつき独断、請け売りのこの「ブリコラージュ」にお付き合い頂き、有難うございました。:amato/2010/07/11加筆

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カイエ・ソバージュX「対称性人類学」については別途読書感想を記してみたいと思っています。

 

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